「おはよー」 宿屋で迎えたいつもと変わらぬ朝。 アリーナ姫様はいつもより早く食堂に入ってきた。 食堂では私以外にはライアンさんが新聞を読んでおり、姫様と同じぐらい珍しくマーニャさんが早起きして食堂で自慢の爪の手入れをしている。 「おはようございます。お早いですね」 「今日は早く目覚めちゃったからちょっと散歩に行ってたんだ」 そう。姫様は朝早く起きられたとき、お1人で散歩に行かれることが多い。 今日もそういう日だったようだ。 と。 「…?」 少しだけ。 姫様の目が腫れぼったいように思えた。 もちろん朝の体調にもよるものなのだが…。 ほんの少し気になって。だけど。 (気にすることではないのかもしれないな) そう思って特に何も言うことはしなかった。 * * * 馬車の中、私はふと目を覚ました。 今日は野宿なため、見張りの仲間以外は馬車の中で睡眠をとっている。 辺りはまだ夜の帳の中。 他の人たちも起きている気配はない。 皆夢の中にいちばん深くいる時間帯なのだろう。 隣に寝ているアリーナ様を見た。 手の甲で目を覆って、仰向けに眠っている。 (毛布をかけ直して差し上げよう…) そう思って、手を伸ばしたとき。 神のいたずらか… 気まぐれな月が雲から顔をのぞかせ、淡い光がアリーナ様を照らした。 頬が。 濡れている…!? 「姫様っ」 小声で。しかし鋭く。 名を呼んだ。 びくっと身を震わせて、アリーナ様がこちらを見た。 大きな瞳にあふれる涙。 まぶたにとどまっていられないものが、頬を伝っている。 瞳が大きく見開かれた。 驚愕にほんの少しの恐れと後悔の入り混じる複雑な気持ちの動きが見え隠れして、視線がさまよう。 そうこうしているうちに、いたたまれなったのか、再び顔を覆ってしまい。 ご、め、ん――― 唇から発せられた、声なき声。 その時。確かに、私の体に衝撃が走った。 何てことだろう。 必死になって耐えている… 声も出さずに泣く、その姿が。 痛々しすぎて…… 思わず。 私は半身を起こし、アリーナ様のすぐ耳元で、アリーナ様だけに聞こえるように、ささやいた。 「泣いたって、いいんですよ」 アリーナ様の瞳が、再び大きく開かれた。 懸命に何かをこらえている。 けれど、見る間に新たな涙が溢れ出して。 堰を切ったように。 私の胸に頭を押し付けて。 体を震わした。 何てことだろう…… そっと。 アリーナ様の髪をなでる。 反応するように、私の服をつかむ手がさらにぎゅっと固くなる。 それでも。声だけは漏らすまい、と全身に力がこもっているのが伝わってきて。 私は唇を噛んだ。 恐らくこの姫は、今までも枕を濡らしてきたに違いなかった。 友人たちに気づかれぬよう。嗚咽すら漏らさず。 何てことだろう。 今まで気づかなかった。 気づいてやれなかった。 連鎖的に、朝のことが思い出される。 こんな夜を過ごした後は、朝早く起きて泣き腫らした目を休ませていたに違いないのだ。 今朝見た腫れは、引ききらずに残ってしまったもの。 あのとき、気づいてあげるべきだったのに……。 長い間共に旅をし、毎日近い位置にいたせいで、自分はアリーナ様の全てがわかっている気になっていた。 皆に振りまく笑顔を信じきっていた。 笑う顔だけがアリーナ様なのだと、思い込んでいた。 その裏で、どれだけの涙が流されたのかも知らないで―― 迂闊だった。 目眩がした――。 アリーナ様は変わらず私の胸で震え続けている。 声を出して泣けとは言えなかった。 自分の胸の内を誰にも明かさず涙を流してきた姫様のことだ。 仲間に心配かけることを恐らくいちばん嫌がるだろう。 ならばせめて。 思いっきり泣けぬ分だけでも自分が引き受けてあげよう。 自分がここにいることでアリーナ様の心の孤独が少しでも軽くなることを一心に祈りながら、アリーナ様の頭を優しく優しくなで続けた。 * * * どれぐらい経ったろう。 ふと、髪をなでていた手を止める。 アリーナ様は私の服をつかんだまま、泣き疲れて眠っている。 その寝顔は穏やかだ。 少し安心する。 涙の跡に張り付いた髪の房を丁寧にとってやる。 そうしながら、健気な姫の心の中を思う。 魔物の巣窟と化した故郷。 父王は未だ不在。 たとえ武術が人より優れていても、心はもちろん少女。 この状況が辛くないわけは、ないのだ…。 「頑張りすぎですよ…姫様」 そっと、ささやく。 大それたことは言わないですけど、でも。 私は、ずっと。 「傍に、いますから――」 これは決意。これは事実。 それを声に出して呟いて。 私は、もう一度だけ、アリーナ様の髪をなでた。
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